「クリスチャントゥデイの異端説」の根拠「Kノート」の再評価

クリスチャントゥデイの「偽メシア疑惑」のもとになっているのは、クリスチャントゥデイ元社員の「Kさん」が持っていた一連のノート(通称「Kノート」)だと言われている。

このノートの持ち主である「Kさん」は、いまは普通の仕事をされて、一般の信徒として教会へと通われているというように、伝え聞いている。

Kさんご本人は「裁判で決着がついたし、論争でこのノートを持ち出してほしくない」と強く希望しているようだ。

東京ソフィア教会の信仰弁証文(K氏自身の証言)「牧師のブログ」:https://blog.goo.ne.jp/uccjkc/e/e6ae5f540e79a69fb869ef85e362b23d

従って、この「Kノート」を「安易」に「論争の具」に使うことは、Kさんのために差し控える必要がある

しかし、匿名掲示板の「2ちゃんねる」をみればわかるとおり、クリスチャントゥデイに対する「批判者」が「怪しげに引用」している箇所がある。

これはすでに公開されてしまっているので、この「Kノート」を「安易」に「論争の具」に使われないように、可能な限りの「鑑定」を施して、論点を整理しておきたい。

この「Kノート」は、
(1)Kさんの2004年時点での勤務先のクリスチャントゥデイでの取材記録、
(2)所属していた「東京ソフィア教会」での聖書講義、
(3)その中での異端対策講義など
からなるといわれており、全てで20冊あるといわれている。
しかし、その全貌は公開されていない。

また、この20冊のノート「本体」は「行方不明」となっており、元の所有者であるKさんにも返還されていない、ということである。

Kさんはその返還を求めておられる。

ノートはその特性上、持ち主自身でなければ、その内容に関して、他者に解説することなどできないからだ。
(本稿はKさんの意向は抜きに第三者として再鑑定をしてあるが、内容そのものの是非に触れることはないように努めた。)

「クリスチャントゥデイ裁判」においては、救世軍のY少佐側から、このKノートが、「異端的教義が教え込まれていた証拠」として提出された(乙113~115)が、裁判所はこの「Kノート」には、カルト性・異端性を認めなかった。

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このことは抑えておくべきである。

裁判所は決して「Kノート」を「張牧師=来臨のキリスト」と誘導する講義があった証拠であるとは認めてはいないし、そのような証拠ではないと結論しているのだ。

裁判においてさえ、明確に「偽メシア疑惑の証拠」としては「認められなかった」Kノートなるものに、今後どのような証拠価値があるのだろうか。

既にのべた通り、クリスチャントゥデイに対する「批判者」たちが、匿名掲示板「2ちゃんねる」でKノートを「部分的に引用」し、「怪しい証拠」などと「言われ放題」のまま、現在も閲覧可能な状態に置かれている。

以下が、その「言われ放題」の箇所の「ほぼ全貌」にあたる。

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(いわゆる「Kノート」のタイプ打ち直し版の一部
:被告Y少佐側から提出された証拠の複写物)

「2ちゃんねる」が情報源となって、Kノートは「不気味な薄気味の悪いノート」として噂が拡散され続けているようだが、本当にその理解でいいのだろうか。

もう一度、「再検討」を加えて見たい。
次のABの二点については「確実だ」とわかるはずだ。

(A)まず、この図解の基礎になっている聖書の個所は、新約聖書「マルコ福音書」4章28節である。(ちなみに、この個所はマタイ、ルカ、ヨハネといった他の福音書には存在しない。マルコ福音書だけにある個所だ。)

(B)さらに用いたのは「福音派でもっとも広く使われている」翻訳である「新改訳」であったことも確定される。

プロテスタントでもっともよく用いられている翻訳で、マルコ4章28節を比べてみて、確かめてみよう。

(1)口語訳「め→ほ→み」
「地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。」

(2)新共同訳「くき→ほ→み」
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

(3)新改訳「なえ→ほ→み」
「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。」

以上で、Kノートの基礎になっているのは、「新改訳聖書」の「マルコ福音書」4章28節に基づいた聖書講義だったと、「ほぼ断定」できるだろう。

ちなみに「新改訳」という聖書翻訳の版は、日本においては、比較的「保守的」なプロテスタント(=「いわゆる福音派」)において、使われる傾向にある。

従って「福音派系の教会・教派」で行われた聖書講義ノートだろう、ということが、ほぼ確かだと思われる。

また、この聖書講義は世紀末から新世紀の初頭、つまり1990年代後期から2000年代初期になされた、伝統的福音派の聖書解釈に基づく講義だったと理解できる。

なぜならば、次の1~3がわかるからである。

(1)穂の部分が歴史上のイエスであって、もう一度来られるときがあること。いま新たな時代が開かれようとしていることを、2000年(ミレニアム)の節目に基づいて、説明しようとしていると理解できる。

(2)奴隷、子、しもべ これは黙示録での説明。旧約は奴隷の身分であったが、イエスはわたしたちを子として、黙示録の約束する時代にはイエスはわたしたちの友となると書いてある、と説明しようとしていると理解できる。

(3)この時代に入れる、入れない。これは、言い換えると、「主の来られる2000年(ミレニアム)だ。今の絶好のチャンスを逃さないようにしなさい」という「すすめ」だと思われる。

(この点について、実際に「判決」では「2002年」「東京ソフィア教会」の記載があることが認められており、われわれの分析と合致する:判決19頁)。

総じて考察できることは、「再臨論を強調するプロテスタント教派」で良くありがちな「聖書預言」的な講義だ、ということである。

ちなみに、この「苗・穂・実のたとえ」は「ものごとが成長していくときのたとえ」ばかりでなく、「成長の契機(きっかけ)となった人物」に対してもよく使われる個所である。

例えば、日本基督公会の設立に尽力したデビッド・タムソン博士に対して、次のように使われている。

彼が其の同僚と相携へて涙を以て撒きし福音の種子ははえいでて苗となり、次に穂いで、つひに穂の中に充ち足れる穀熟(みの)れるに至れり。斯くして博士の一生は基督の名に於て日本にささげられたり。(山本秀煌編『日本基督教会史』日本基督教会事務所,1929年,418頁)

さて、もっと注目すべきことは、この「苗・穂・実のたとえ」を、「聖書預言」的な「福音主義」の普及者のひとり、Cyrus Ingerson Scofield(1843年~1921年)も重要な個所として用いた、ということである。

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Scofieldによる論文。英語でもっとも普及した「欽定訳聖書」で当該箇所が引用されている。

従って、この「Kノート」は、スコフィールドを代表とする、「アメリカ的な伝統的保守のプロテスタント」の聖書解釈の伝統のもとにある、と言えることだ。

さらに「Kノート」を読み進めると、上記の「成長」のたとえをもとに、「世界の歴史」を「七等分」し、さらにそれに象徴的な解釈を施している箇所がある。
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これを見ても驚いてはいけない。

やはり、アメリカの保守系キリスト教会にも、このような「類似」の「図解を用いた講義」、「聖書預言」という名前のたとえを用いた説教は行われ続けている。

YouTubeを探すと、この系統の神学を取る聖書講義の例を、いくつも見つけることができるのだ。

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Robert Breaker: The 7000 Years of Human History
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通常このような図解がされる。


ぜひとも、白人講師の板書と、Kノートの記述とを、見比べてほしい。
この白人の講師の聖書講義を見て、「そのままメモしたのか」と思うくらいに、「似すぎている」と思われないだろうか。

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太陽が想像された日まで同じ。

計算の6000年まで同じであろう。

根拠となる聖書個所(第二ペトロ3:8)を書き記す「位置まで」同じである。


つまりKノートこそ、全く伝統的な「保守キリスト教である」「ディスペンセーション神学講義が行われていたことを示す、何よりの証拠なのである。


思い出していただきたいのは、あの韓国CBSでの「疑惑報道」においても、映っていたものではないだろうか。
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(日本語訳)
例を見れば神様が6日で世界を創造されたことがわかるでしょう。それで

創造(創世記)  1234   56 |7

真の歴史    4000   2000|1000年(7000年)
        2000   2000 
        創世   旧約 新約


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つまり「Kノート」の講義についても、韓国CBSの報道したノートについても、次の一つが言えるだけである。

「アメリカ発祥の保守的プロテスタントの教会において『千年王国』を論じた聖書講義が行われていたということ」。

つまり、スコフィールド以前にさかのぼる福音派の伝統的な聖書解釈が、韓国でも日本でもなされていた、という証拠なのである。

最近はこの方面で議論が起こっているようであるが、その議論の発端の一つとなった藤本満『聖書信仰:その歴史と可能性』(いのちのことば社,2015年)では、次のように説明されている。

いや、さかのぼるところ一八世紀の中盤にあっては、ほとんど米国福音主義の学者は、創世記一章の「日」の解釈を、一つの大きな時代区分と理解し、「その結果、進化それ自体はキリスト教神学のいかなる教義にも、また聖書の忠実な解釈にも反するとは考えられていなかった」。(100~101頁)

さらに、J・N・ ダービー(John Nelson Darby, 1800-82)によるディスペンセーション主義では、人類の歴史は7つのセクションに区分され、今は第六の恵みの時代であり、やがて第七の区分、すなわち千年王国がやって来る。第六と第七の区分の間に、真の信仰者が地上から挙げられるという「携挙(Rapture)」(Iテサロニケ四・一六~一八)が挿入され、堕落した教会は地上に残され、患難時代を迎え、その後、イスラエルの国が回復して、千年の間祭司の王国として立てられる。前千年王国説を信奉する人々は、ユダヤ人のイスラエルへの帰還から再臨の在り方に至るまで、徹底的に聖書の字義的解釈(literal where possible)を前提としていた。(96頁)


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これらの世界史の7等分の解釈は、新しいものではなく、古代からある伝統的な解釈である。古くはアウグスチヌスの歴史哲学にさかのぼる。

『神の国』第十一巻のはじめの部分は、神の創造の業の六日間についての解釈でもある。しかし、なによりも重要な問題は、天使の創造において出現した良き天使と悪しき天使の分岐である。悪しき天使は神の光から転回する。神からの背離がかれらの知性を暗黒化し、賢明で祝福された生命の完成を失うのである。天使たちのあいだに二つの分岐が生ずることによって、二つの天使の社会はできることになる。その一つは、本性においては善であり意志においては正しい天使たちの社会である。他は、本性においては善であるが、意志においては転倒した天使たちの社会である(十一・三十三)。『創世記』のはじめに、光が暗黒から区別されるという記事があるのは、ある意味で、天使たちはこのような二つの社会の分岐を実現しているのであろうか。(アウグスティヌス「神の国(一)服部英次郎訳,岩波文庫,1982年における服部による解説)


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ところがここで問題がある。
統一協会においても世界の歴史を7等分しているのだ。

ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成されたものではなく、それが生成されるまでには、相当な時間を要したという事実を我々は知った。したがって、天地創造を完了するまでの六日というのは、実際は、日の出と日没の回数によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。(世界基督教統一神霊協会『原理講論』光言社,1967年, 76頁)

だがしかし、これまでの議論から明らかなとおり、世界史を「7等分」する神学・図解があるから、「統一協会」ないし「統一協会分派」である、という結論を引き出すのは、早計である。

なぜなら、世界史を「七等分」する「福音派神学」、さらにはその源流である「アウグスチヌスの神学」の方が、統一協会の発生よりも「はるかに古い」からである。

それこそ、後でプロテスタントから分離して成立した統一協会(およびその「分派」)の方が、このような解釈手法を「借りている」と、考えるべきであろう。

この点を、決して逆転させてはならない。

ちなみに日本の「クリスチャントゥデイ裁判」で「Kノート」を検証・鑑定したとされるのは、「日本脱カルト協会」理事のH氏(日本福音ルーテル教会牧師:すでに故人)であった。

H氏は、救世軍Y少佐あてに下記の「暫定的な鑑定結果」をメール送信している。
__________

【乙第14号証】
送信者: MH
宛先: MY
送信日時: Monday April 16, 2007 22:05
件名: Re:
Y先生
Hです。
ノートの再臨論についてです。
全体的に、統一協会の復帰摂理(救いの歴史)の枠組みになっています。
統一協会、蘇生(2000年)→長生(2000年)→完成(2000年)
ノート、なえ(2000年)→ほ(2000年)→み(2000年)
みの時代においては、御霊の時代、新しいキリスト。
問題の2000年―ダビデ、の箇所は異端対策とは思われません。
前ページに、「1992年10月30日に教団がはじまった・・・」とあるのは、摂理や他の団体ではありませんし、張氏の団体と思われます。その流れの中の図解となっています。
2000年、新しいキリスト=御霊の時代、そこにダビデの名があることは、旧約のダビデを指さないことは明白ですが、張ダビデを指すかどうか、これは信者の証言によると思います。
張氏の団体側の言う、異端対策ではなく、旧約のダビデでもありません。
このところは、統一協会やそこから発生した団体に共通するものがあり、自称メシアであっても、固有名詞入りで書かれない、講義を最後まで聞いても、名前を明かさず、受講生たちはそれまでの抗議の結果、例えば、統一協会では、名前は言わなくても、メシアは文鮮明だと行け入れてしまっている。
講師は、さらっと、最後の最後に流す。受講生は、ああやっぱりと何の抵抗もなく、受け入れる。
1960年代の統一協会の日本伝道がそれでした。宣教師ショウサンイク(西川 勝)は、メシアは誰だか言わない方が、日本伝道はうまく行くと考えながら、再臨論を唱えました。それが文鮮明の怒りにふれ、日本の任を解かれ、その後アメリカ宣教師になりました。
この団体も、メシアは張ダビデ、しかしあまり言わない方が宣教に良いのではないかとの思惑があるのかもしれません。このところ、信者の多数の証言が必要とされるところです。
以上、思いつくままに記しました。
気づいたことがあれば、また連絡します。
あまりお役に立ちませんで、申し訳ありません。
H
__________

ちなみに、裁判に証拠提出された「Kノートについての鑑定」は、H氏のこの一通の私的なメール「ただ一通」のみである。

このH氏のメール「だけ」をもって「正しい鑑定」とするのは、「公平な議論」と言えるのだろうか。

また、匿名掲示板「2ちゃんねる」での議論は、この「H氏の鑑定結果」のみを根拠としているが、それは正しい解釈なのか。

脱カルト協会のH氏は、ヨーロッパ系のルーテル教会(ルター派)所属の牧師であり、アメリカ流の福音派神学の経綸・聖書預言解釈を中心とする神学には「なじみがなかった」はずである。

したがって、H氏は、「統一協会(分派)の神学」には詳しくても、「伝統的な福音派の神学」との「区別ができなかった」可能性が高い。

その証拠に、当のH氏は、上記のメールをY少佐に送った後で、自分の見解を「少し修正」しているのである。

その後、『リバイバル新聞』の取材に、H氏は次のように答えている。

「ノートの文脈の前後関係を見ると CT の背後団体についての記述であり、異端対策ではない。
ただしこの"ダビデ"が張在亨氏であるかはノートからは確認できないので、『慎重な対応が必要』と語る。」

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(H氏の鑑定について掲載している『リバイバル新聞』2007年6月3日の第2面)

この、『リバイバル新聞』でのH氏の意見は、メールでの「暫定的な鑑定」を「実質的に自己否定」したものであることが明らかだろう。

Y少佐に送信してしまった自分の鑑定に「不備」があったと気が付いた、とみるのが妥当ではないのか。

(ちなみに、詳細は明らかにしないが、Y氏へのメール発信からこの『リバイバル新聞』の取材までの間に、H氏が実際にクリスチャントゥデイ、東京ソフィア教会関係者などに、直接に会って、疑問を問うていた、とする情報をつかんでいる。)

したがって、我々は、Kノートに対して、「統一協会」ないし「統一協会系分派」に由来すると考えるよりも、「福音派に特有の『聖書預言』を用いた聖書講義」の可能性が高い、と考えるべきなのである。

もし、そのうえでなお「統一協会」ないし「統一協会分派」のものである、あるいは「偽キリスト教義」の文書である、と主張したいのであれば、Kノート「以外」の「具体的な物的証拠」を提示するべきである。

もはや「Kノート」は、こういった疑惑に対して、証拠として使えるものではないのである。

もし、それでも「Kノート」を「問題」にするというなら、アウグスチヌス以来の伝統的解釈法、並びにそれを引き継いだ保守的な福音派神学「それ自身」の「妥当性」をこそ問題にしていることになるだろう。

それは、特に「伝統的な解釈を持つ福音派に属する批判者たち」にとって、まさに自分たちの「源流」を疑っているに等しく、安易に批判をしていることそれ自体が「天に唾を吐いている」ことなのではないだろうか。

聖書解釈の妥当性をめぐる神学論を戦わせるならともかく、「偽キリスト」の証拠として用いてよかったのか、再考すべきである。

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#장재형 #クリスチャントゥデイ

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Commented by 山猫 at 2018-06-29 16:53 x
さまざまな神学的解説をもとにKノートについて整理していただきありがとうございます。キリスト教界には自由がないのではないか?と危惧しています。そもそも聖書というのは、まだ誰も詳しくは内容がわかっていない本でもあり、いろいろな解釈の仕方や深い洞察が必要になってくるものだと思います。教団というものが、個教会の自由な聖書研究を妨害して、安易に異端認定するようなことがあってほしくないと願います。クリスチャンメディアならなおさらです。
Commented by sinso_christianto at 2018-06-29 17:00
保守的福音派への忌避感があるようですね。私も忌避感がありますが、どこまでも神学的な論争で解決していくべきもので、「偽キリスト論争」に乗せて都合よくやるもんではないと思います。

日本基督教団なる組織が、どういう方向を向いているかは分かりませんが、そもそも「破壊的カルト」でない限り、他教団の運営に文句を言う声明なんか出すべきことはないだろうと思っています。

そこでこちらが、「クリスチャントゥデイは破壊的カルトなのか」と聞いても、「明言を避ける」とか「カルトという前提で見てるのはあなた方だろう」などと答えをはぐらかされるので、困ってしまうわけです。

今回の教団議長さまのお出しになられた声明は、いったい何だったんでしょう、と思っています。
by sinso_christianto | 2018-07-11 09:24 | 評論(クリスチャントゥデイ裁判) | Comments(2)